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        − 初めてのタイ −

         戦場にかける橋
                              
1.はじめに   一昔前 「クワイ河マーチ」が学校の運動会などでよく聞かれた  アメリカ映画の「戦場にかける橋」のテーマ曲である この映画は 第二次  世界大戦中に日本軍がタイのクワイ河にかけた橋を舞台にしているが 娯楽  映画であるため ストーリーは史実通りではない    今年(2005年)10月20日 「クワイ河平和基金代表・永瀬隆氏」  が「第12回読売国際協力賞」を受賞することが報じられた  氏は戦時中は憲兵隊通訳としてタイ−ビルマ(現ミャンマー)間の泰緬鉄道  建設に従事され 戦後は40年間にわたり 私財を投じてタイでの奉仕活動  を続けてこられたそうである   今年11月にパックツアーで初めてのタイ旅行をし 自由行動の日に「戦  場にかける橋」の日帰りツアーに参加してみた 2.カンチャナブリへ   戦場にかける橋 のモデルになったクワイ河の橋は バンコクから130  キロほど西にある バンコク市内のホテルに集合したツアー参加者は 私を  含めて4人だった 私たちは9人乗りのワゴン車で出発した    朝夕のバンコク市内は交通渋滞が常態化しているようであるが チャオプ  ラヤ川を渡るとスムーズに走ることができた 橋のあるカンチャナブリまで  2時間ほどだった  20051115bridge (0).jpg  バンコク郊外では 緑の多い町並みが 眼に入ってきた 現在 バンコク市内に は高層ビルが建ち並んでいるが かつて は街全体が緑に包まれていたのであろう   道路は3車線のところが多く 高速道 路並みの速度で走ることができた   ↑バンコク郊外   余談になるが タイ旅行で気付いた交通事情をいくつか列挙してみる 20051114bridge (16).jpg・日本と同様に車は左側走行である ・車は80%以上が日本製である(現地  人ガイド談) ・自転車はあまり見かけない バイクが  多い(自転車は暑いから!?) ・速度制限の表示が見当たらない ・制限速度は市内では60キロ 郊外で  は80キロ ただし110キロまでは  取締りがない(現地人ガイド談)   ↑バンコク市内のバイク軍団  ・交通違反で警官に捕まったときは賄賂                   で解決するのが通例とのこと    ツアーの最終日にバスで空港へ向かっていたとき 警官に呼び止められた   バスは高速道路で追い越し車線を長いこと(2分?)走ってはいけないとの  こと ツアーの開始当初に慣習的な解決方法を解説した現地人ガイドは 早  速実践してみせてくれた 3.戦争博物館   カンチャナブリで最初に訪問したのは連合軍共同墓地だった  総延長約415キロの泰緬鉄道は 昭和17年(1942年)9月から 翌  18年12月にかけ 突貫工事で建設された  泰緬鉄道の建設に従事して亡くなったイギリス人 オランダ人 オーストラ  リア人などの捕虜の墓地である ここにはおよそ7,000人の霊が眠って  いるという 実際に亡くなったのは倍近い人数だったようである   クワイ河平和基金代表の永瀬隆氏は 日本軍が降伏した後 連合軍捕虜の  遺体発掘作業に携わったそうである  20051115bridge (3).jpg  ←整備された墓地には 欧米系とみられ る観光客が多数訪れていた  共同墓地から橋に向かう途中 日本軍 が昭和19年2月に建てた慰霊碑があっ た(車窓から見ただけ)   ↓ 20051115bridge (4).jpg   1977年に設立された戦争博物館は 「JEATH War Museum」と名  付けられている JEATHとは 日本 イギリス オーストラリア タイ  オランダ の英字頭文字を並べたものである   泰緬鉄道の建設当時に使われた捕虜収容所を再現した建物があった  竹を組んだ建物は椰子の葉で屋根が葺かれ 真ん中を通路として両側に竹組  みの床がしつらえてあった 内部には戦争当時の武器 生活用品や 新聞記  事などが展示されていた とりわけ展示スペースを占めていたのは 当時の  虐待された捕虜生活を英文で綴った記録である(写真撮影は禁じられている)  英米人と思われる多数の若者がじっと見つめている脇を 私はやや足早に通  り抜けた 20051115bridge (1).jpg ←戦争博物館  収容所を再現した展示棟入り口(右) (U字型に配置された建物の出口は写真  左にある(写っていない))     ↓  20051115bridge (2).jpg     かつて 日本は捕虜を丁寧に処遇した歴史がある 例えば 松山に収容さ  れた日露戦争のロシア人捕虜は 市民から暖かくもてなされたそうである  しかし その後日本軍内部においては 捕虜になることを恥辱とする思想が  強くなり 捕虜の取り扱いについての教育が欠落した  日本軍にとって戦況が不利に傾きつつあった当時 食料も医薬品も満足に与  えないで鉄道建設に酷使した捕虜は次々に倒れたのである    鉄道建設に従事したのは 連合国の捕虜だけではなく タイ マレーシア   インドネシアなど 東南アジア諸国から集められた労務者が多かった  その多くが倒れたが 記録はなく ジャングルの土の中に眠っている人の数  は 数万人とも10万人を超えるとも言われているようである 4.クワイ河の鉄橋   映画「戦場にかける橋」では 鉄橋は峡谷に架けられていたが ここはほ  ぼ平地である 現在 汽車(ディーゼル車)が1日3往復しているそうであ  るが それ以外の時間は自由に橋を歩くことができる  橋の長さはおよそ300メートルである 私も橋を往復してみた 20051115bridge(17).jpg  永瀬隆氏は 1976年にこの橋を歩いたそう である それは単に思い出を辿るためではなく もちろん 観光でもない 氏は 連合軍元捕虜と日本軍関係 者たちとの再会を計画し 人々に呼びかけ 実現 したのである かつての敵味方が 30年あまり後に 一緒に鉄 橋を踏みしめて歩いたときの感動は いかばかり だったろうか ←踏み板が渡してある線路   私が渡ろうとしたとき たまたま地元?の中学生の団体と一緒になった  明るくて礼儀正しい子供たちだった 橋脚の両側には待避所が設けられてい  た 待避所で写真を撮っていたら 少年の一人が手まねで写真を撮ってくれ  と言った OK と言って写す構えに入ったら 何人もが集まってきた 気  さくな子供たちだった 20051115bridge (5).jpg ←団体で訪れた地元の中学生    ↓はい チーズ  20051115bridge (6).jpg   河の水は濁っていた 流れは意外に速かった   橋の近くに水上レストランがあり タイ料理の昼食を摂った  11月中旬といっても 日中は35℃近い暑さである 辛いタイ料理と冷え  た日本ビールが心地よかった   20051115bridge (11).jpg ←水上レストラン   ↓水上レストランから見上げた橋  20051115bridge (13).jpg 20051115bridge (12).jpg ←昼食のタイ料理   泰緬鉄道を走ったC56型機関車   ↓(カンチャナブリ駅)  20051115bridge (7).jpg   タイも英米に対して宣戦布告した国である  このメクロン永久橋 いわゆる「戦場にかける橋」は タイ国が連合軍側か  ら多額の費用で買い取らされたものだそうである  永瀬氏は 1976年にこの橋を歩いたとき タイ国旗を掲げたそうである 5.列車の旅   橋のすぐ東にあるカンチャナブリ駅から列車に乗り 鉄橋を渡った  ディーゼル機関車に6車両ほどが連結されており 最後尾が指定席の特別車  だった 車内では冷やした紙タオルと冷たい水のサービスがあった Tシャ  ツや菓子類の売り子が何回か通りかかった   窓外には 前日まで見かけたバンコク周辺とは違った景色が広がっていた  列車はやや高地を走っているためか 水田は見当たらず 畑が広がっていた  人家は少なく あちこちに点在している程度だった  20051115bridge (8).jpg ←赤い土の畑  ↓サトウキビ畑 20051115bridge (9).jpg   終点のナムトックまで70キロ余りを1時間20分ほど走った  (現在 旧泰緬鉄道を列車が走っているのは タイ国内の一部だけである)  途中 無人駅が何箇所かあった 駅舎というほどの建物はなく わずかに屋  根のある日本のバス停のような感じだった 2、3人づつ降りた乗客は 木  の茂った畑のわき道へと消えていった 20051115bridge(18).jpg ←何の作物か分からなかった畑     ↓終点付近のクワイ河   20051115bridge (10).jpg   泰緬鉄道の完成後2年足らずで日本は降伏した  降伏後 日本兵はこの鉄道の周辺で戦後処理作業に駆り出された  永瀬氏の詠まれた句を少し引用させていただく     集結の兵ら語らず椰子の駅     朽ち果てし木の十字架の露の虹     墓を掘る兵みな素直炎天下  (「戦場にかける橋」のウソと真実・永瀬 隆 岩波書店 1986年から) 6.おわりに   永瀬氏は クワイ河平和基金をタイ現地法人として設立し カンチャナブ  リ県で恵まれない学生達に奨学金を出す などの活動をしておられる   タイへの思い入れは何だったのか という問いに対して   「...終戦後 タイから日本へ復員する際 タイ政府が13万人の日本兵   一人一人に飯盒一杯の米とザラメを支給してくれた 復員する米軍艦船上   でそのザラメを口にした それはおいしかった あの時のタイ政府の恩義   に報いたい気持ちでした」と述べておられる   私は 泰緬鉄道の建設が始まった1942年に生まれた  その当時 日本から遥かな遠い酷暑の地で 生死の境を彷徨った多くの人が  いたという事実に わずかながらも想いを馳せることができた旅だった                        (散策:2005年11月15日)                    (脱稿:2005年12月15日) ------------------------------------------------------------------
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